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本人通知せずに疑問の声 旧優生保護法救済法案に関係者ら:3日付京都新聞 など

 投稿者:事務局  投稿日:2018年11月 3日(土)22時51分39秒
  通報 返信・引用 編集済
  みなさん、こんばんわ。  事務局のNです。

 *今日は秋晴れで心地よく、まさに行楽日和でしたよね…

※WEB報道など……
☆本人通知せずに疑問の声 旧優生保護法救済法案に関係者ら
  京都新聞 2018年11月03日
  https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20181103000019
 > 旧優生保護法下で繰り返された不妊手術被害者に対する救済法案づくりで、自民・
  公明両党の合同ワーキングチーム(WT)が10月末に公表した骨子に、滋賀県や
  京都府ゆかりの当事者団体や支援者から疑問の声が上がっている。手術記録があって
  も本人通知をしない方針が盛り込まれ、法の違憲性や政策の過ちに対する検証が明記
  されていないためで、より被害者の立場に立った救済策を求めている。
   超党派議員連盟のプロジェクトチーム(PT)も7日の骨子公表に向けて作業を進
  めている。考えは与党WTとほぼ一致しており、来年の通常国会までに一本化した上
  で、法案が提出される見通しだ。
   与党WTは本人通知をしない方針を打ち出したが、全国被害弁護団は再検討を求め
  るコメントを2日、発表した。国は当時、身体の拘束や麻酔薬の使用、だまして手術
  することも認めており、被害を自覚していない人も多い。「少なくとも記録が残る人
  にお伺いをしてほしい」と知的障害者と親でつくる「全国手をつなぐ育成会連合会」
  (大津市)の久保厚子会長(67)は要望する。
   通知をもらったとしても、障害特性によっては認識や意思表示が難しく手を上げら
  れないという問題もある。同連合会は今月中に都道府県育成会に相談窓口の設置を依
  頼し、福祉協会や自立支援協議会と連携して被害の把握に努める。
   久保会長は「支援団体からの申請も受け付けてほしい。謝罪と補償で終わりにせず、
  一人一人の心に寄り添う施策も大事」とくぎを刺す。
   与党WTは骨子に身体的・精神的苦痛に対する反省とおわびを明記することを盛り
  込んだ。「国としてひどいことをしたので人権回復のために謝りたいという気持ちが
  前提だが、お金ではなく、謝罪を目的とした通知なら記録がある人に出すべき」と支
  援者団体「優生手術被害者とともに歩むみやぎの会」の会社員横川ひかりさん(34)
  =仙台市。転居前の京都市在住時から勉強会を催し、強制不妊手術問題を考えてきた。
  「被害者だけでなく法律で不良な存在とみなした障害者に謝罪を表明しないと不十分。
  何があったのかを検証する第三者機関も必要だ」
   全国弁護団は「被害回復制度」という言葉を使っており、「救済」という表現にも
  慎重になるべきだという指摘がある。DPI女性障害者ネットワークの藤原久美子代
  表(54)は、優生保護法が議員立法で成立した背景を踏まえ「『上から目線』で加
  害者側が使う言葉ではない。人権回復法的なニュアンスで再発防止策も入れるべき。
  お金を渡して終わりだと、逆に差別が広がる恐れがある」と訴える。
  …などと伝えています。
 *旧優生保護法の不妊手術記録とは
   京都新聞 2018年11月03日
   https://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20181103000071
  > <旧優生保護法の不妊手術記録>
    全国で少なくとも2万4993人が不妊手術を受けたとされるが、保存期限切れ
   で既に大量に廃棄された。断種の適否を決めた優生保護審査会の現存資料は、滋賀
   県が数字上で判明している282人のうち10人分、京都府が同じく95人のうち
   13人分にとどまる。審査会資料との重複は不明だが、厚生労働省の調査で、全国
   の医療機関や福祉施設、市町村に1603人分(滋賀県3人、京都府ゼロ)の個人
   記録があることが判明している。
   …などと伝えています。

☆憲法大切にすることも大事 障害者たちが理念訴え 東京
  NHKニュース 社会 2018年11月2日 20時09分<動画>
  https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181102/k10011696601000.html
 > 3日で憲法が公布されて72年となるのを前に、障害のある人たちがそれぞれが大切
  にしている憲法の理念を訴える催しが都内で開かれました。
   この集会は、日本障害者協議会が開き、東京 千代田区の会場には、約300人が集ま
  りました。
   集会では、自民党が今の国会に党の改正案の提示を目指していることを踏まえ、障
  害のある本人が今の憲法の理念について、みずからの意見を述べました。
   運動機能に障害があり、車いすを使用している大学2年生の加藤美来さんは、教育
  を受ける権利を保障した憲法26条を取り上げました。
   そして、「この条文により、家族や友達、周囲の人たちのサポートを受けながら学
  校に通うことができました。ただし、同じ障害がある子どもたちの中には、学校に通
  いたくても通えないケースもあるので、しっかりと教育が受けられるようにしてほし
  いです」と呼びかけました。
   また、糖尿病患者の西田えみ子さんが大切だと口にしたのが憲法13条です。5歳で
  発症した西田さんは長く生きられないと告げられ、生きる目標をもてずにいましたが、
  受験勉強の際に個人の尊重を掲げたこの13条の存在を初めて知り、勇気づけられたと
  いいます。
   西田さんは「病気で苦しむ中で、個人として尊重される権利が自分にもあることに
  驚き、憲法が人権を大切にしていることにとても感動しました」と話していました。
  …などと伝えています。
  ・憲法公布72年を前に障害者訴え
    NHK首都圏のニュース 11月02日 19時14分<動画>
    https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20181102/0020867.html
*障害者の幸せ・平和考えた-大好き憲法 未来へ-公布72年 集会
   しんぶん赤旗 2018年11月4日
   http://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-11-04/2018110414_02_1.html
  > 日本国憲法公布から72年となる3日を前に、日本障害者協議会(JD)は2日、憲法から
   障害者の幸せと平和を考え合おうと東京・憲政記念館で、集会を開きました。参加者は、戦争
   がなく、人権と民主主義が守られ、おびえたり飢えたりすることなく安心して暮らせる社会の
   よりどころとなる「私たちの憲法を守り、未来につなげていきましょう」とするアピールを採
   択しました。
    JDの増田一世常務理事は、安倍首相の改憲をめぐる動きにふれ、「憲法と私たちの暮らし
   を照らし合わせるとその大切さが実感できる。憲法と障害者権利条約を身近なものにしていこ
   う」とあいさつしました。
    シンポジウムでは、身体障害者、知的障害者、聴覚障害で性的少数者、きょうだいが障害者
   などさまざまな人たちが、それぞれ好きな憲法の条項について語りました。全国精神障害者団
   体連合会の佐藤真智子さんは「憲法は人権を尊重するというけど、精神障害者の人権は守られ
   ているのか」と訴えました。
    視覚障害のある織田津友子さんは、自身が所属する東視協が、安倍首相の狙う9条改憲反対
   の署名を点字で集めていることを紹介しました。
    「憲法13条(個人の尊重)を知ったとき、私にもそんな権利があるの?と驚き、感動した」
   と語ったのは、西田えみ子さん。幼少時に難病「1型糖尿病」を発症しました。医療が欠かせ
   ず就労するのも困難ですが、難病医療費助成の対象外で障害者手帳も交付されません。障害年
   金の不支給決定を不服として提訴したと述べ、「社会保障をこれ以上切り下げられないようた
   たかっていきたい」と力を込めました。
    JDの藤井克徳代表は、相模原市の障害者施設での殺傷事件や旧優生保護法下での強制不妊
   手術、官公庁の障害者雇用水増し問題などこの間、相次ぐ障害者をめぐる事件の根底に「障害
   者排除がある」と指摘。障害者を取り巻く状況からは、「憲法が守られていない。国会では改
   憲の動きが強まっているが、むしろ今はまだ、憲法を守(りその理念を実現す)る段階だ」と
   強調しました。
    ハンセン病回復者の平沢保治さんがビデオメッセージで、戦争とハンセン病を語りました。
    フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが、自身が取材を重ねるカンボジアやシリア、岩手
   県陸前高田市での人々との出会いに関して、憲法をキーワードに講演しました。
    野党各党の国会議員が参加。日本共産党からは、倉林明子参院議員が参加しました。
   …などと伝えています。

☆日本国憲法公布72年 近藤益雄「法の下の平等」実践 知的障害児とともに
  (長崎新聞) - Yahoo!ニュース 11/3 11:00
  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181103-00000002-nagasaki-l42
 > 10月17日、民家と田畑が混在する長崎県北松佐々町口石免では、黄金色になった
  稲が収穫のシーズンを迎えていた。その一角に埋もれるようにして「口石児童遊園地」
  はあった。
   「遊園地」といっても広さは約740平方メートル。観覧車やジェットコースターの
  ような巨大なアトラクションがあるわけではない。むしろ、「児童公園」と呼ぶ方が自
  然だろう。滑り台付きのジャングルジムなどの遊具、バスケットボールの朽ちたゴール
  がある程度だ。
   かつてここに知的障害児・者の生活指導・教育の場があった。1953年11月23
  日、口石小の特殊学級(現在の特別支援学級)の担任だった近藤益雄(えきお)=当時
  (46)=が、町が所有していた旧農学校の2階建て校舎を借り、「のぎく寮」を開設。
  それまで間借りしていた民家から、妻えい子=本名ヱイ、当時(43)=と5人の子ど
  も、預かっていた3人の知的障害児と一緒に移り住んだ。
   当時、遊園地部分には寮の運動場や畑などがあり、遊園地前に立ち並ぶ3軒の住居部
  分に寮舎があった。益雄の孫で、現在、そのうちの1軒に暮らす近藤健(62)は小学
  校6年生まで寮で生活した。遊園地内を歩きながら「果樹園もあってミカンなどを栽培
  し、豚も2頭くらい飼っていた」などと振り返った。
   益雄は一枚の板に「風のなかに一本のマッチの火をまもるがごとく」と書き、ミカン
  の木の下に置いていた。当時、「就学猶予・免除」の名の下に就学の機会を奪われてい
  た障害児は少なくない。旧優生保護法で障害者に不妊手術も施していた時代。人権は安
  易に踏みにじられ、益雄にも「ばかを集めて、もうけたそうな」と心ない言葉が向けら
  れた。しかし、実際には益雄の教員給与や雑誌の原稿料、保護者が払う寮費のほか、篤
  志家や佐世保の米軍から寄せられた浄財などを、えい子が必死にやりくりしていたとい
  う。
   当時、こうした施設は全国的にも少なく、寮生は県内だけでなく県外からも集まった。
  多い時で三十数人に達し、79年4月の閉園まで延べ百数十人が生活を共にした。だが
  益雄は閉園からさかのぼること15年、64年5月に自ら命を絶った。57歳だった。
   ◆
   2016年、相模原市の知的障害者施設で、入所者19人が殺害された。この夏には、
  国や自治体による障害者雇用の水増しが発覚。障害者の怒りや悲しみを増幅させる事態
  が相次いでいる。3日は日本国憲法公布72年。戦後間もない時期に障害者一人一人を
  大切にし、憲法13条「個人の尊重」や14条「法の下の平等」を体現した近藤益雄の
  生きざまの一端を紹介する。
   ◎長男の原爆死 「寂しい人々のためこの身生かす」
   「長崎原爆で亡くなった兄耿の(あきら)ために、人の役に立つ仕事をしようと思っ
  たのが、一番の源ではないでしょうか」。近藤益雄が特殊学級(現在の特別支援学級)
  やのぎく寮で知的障害児の生活指導・教育に力を注いだ理由について、益雄の次女で寮
  職員だった江口協子(79)は述懐する。
   1945年7月、益雄の長男耿は長崎市の長崎師範学校に進学。8月9日、近くの長
  崎純心高等女学校裏で防空壕(ごう)を掘る作業中に被爆した。救援列車で諫早市へ運
  ばれたが、11日朝、長田国民学校で亡くなっていた。17歳だった。
   当時平戸高等女学校の国語教師だった益雄は6月に兵隊に召集され、駐屯していた熊
  本の村で耿の死を知らされた。益雄の次男で、のちに成人の知的障害者の共同生活施設
  「なずな寮」を運営する近藤原理=昨年12月、85歳で死去=は著書「のぎくの道」
  (あすなろ書房、65年)で、益雄が復員後の10月9日に書いた日記の内容を明かし
  ている。「原子爆弾によって耿が傷ついたのが二カ月まえ。明日は死んだ日。胸の痛み
  は依然として変わらない。悲しみは深く、いとしさは更に強い。この気持ちを、どうす
  ればよいのか。今は、ただ寂しい人々のために、この身を生かそう」
   ■学校運営
   益雄は復員後、女学校に復帰。平戸の田助中を経て、1948年4月、田平小校長に
  就任した。この時、校長室で知的障害児に勉強を教えたり、一緒に昼食をとったりして
  いる。
   益雄は女学校以前にも県北や離島の尋常高等小学校に勤めており、その間、最も仲良
  くなったのは障害児だったという。益雄は雑誌「教育手帖」(日本書籍、50年)で次
  のように書いている。
   「自分が幼いころから決して人なみ以上の子どもではなかっただけに、そして卒業な
  どで、ごほうびなどというものを、一度もいただくような光栄に浴したことのない子ど
  もだっただけに、また、おとなとなっても、いつも自信のない、つまらない生活をして
  きた人間だけに、私は、このおくれた子どもたちの劣等感や卑屈さやあきらめが、たま
  らなく、いたましいのです」
   そんな子どもたちが成長し、貧困に陥ったりわが子を死なせたりと必ずしも幸せには
  なれず、益雄は「何とかしなくては」との思いを募らせていた。
   田平小でも障害児に声を掛けるうちに親しくなり、校長室に集まってきた。時間を見
  つけて言葉や数を教えると喜んで勉強した。特殊学級設置へと気持ちは傾いたが、現場
  の教員やPTAに相談すると反対された。
   もともと子どもたちとの触れ合いや授業を大事にしていた益雄は、学校運営という校
  長の仕事は向いていないと感じていた。さらに、地元の政争に巻き込まれたり、経費使
  い込みのあらぬうわさを教頭に流されたりした。そこで、教育委員会に校長降任を申し
  出ると同時に、障害児教育に理解のある人物が校長を務める口石小の教員になることを
  希望した。
   ■みどり組
   50年春、口石小に県内初の特殊学級が誕生。益雄は担任となり「みどり組」と名付
  けた。その由来について著書「おくれた子どもの生活指導」(明治図書、55年)で説
  明している。
   「私はみどりいろがすきです。平和と安らかさと、そしてのびゆくもののあたらしさ
  とを、その色に私は感じます。だから、そういうものに、子どもたちが、やわらかくつ
  つまれ、そしていつもあたらしくのびてゆくようにとのねがいを、私はもったのです」
   益雄は子どもたちが自然とみどり組に集まるのを待った。普通学級の教室を訪れて一
  緒に遊び、授業をした。仲良くなった障害児がみどり組を訪れるようになり、定員の
  15人ほどが集まった。
   益雄は毎朝、教室に入ると、一人一人と握手をしながら言葉を交わし、表情を確認し
  た。それぞれの能力に応じて根気強く文字や作文を書かせ、絵を描かせた。そして、褒
  めて励ました。将来の職業生活も見据え、「なかよくはたらこう」を目標にヤギやウサ
  ギを飼って世話をさせた。
   だが、普通学級の児童から「みどり組はばか」とさげすまれ、「勉強ができない子は
  みどり組にやるよ」と言う教員もいて、子どもたちは悔しい思いをしていた。このため
  数年後、平凡な「一組」と改め、遠方からの入級希望もあり2クラスになった55年、
  「一の組」「二の組」とした。
   ◎のぎく寮 「いつになったら休ませてくれるのか」
   近藤益雄は口石小の特殊学級「みどり組」の担任になって4年目の1953年11月
  23日、北松佐々町所有の古びた旧農学校(2階建て)を借り、知的障害児・者と共同
  生活をする「のぎく寮」を開設した。
   当時、益雄と妻えい子は間借りしていた民家で預かっていた3人の障害児のため、広
  い家が必要と感じていた。さらに近くの炭鉱マンの子どもたちがみどり組に通っており、
  閉山に伴う配置換えで引っ越す先に特殊学級がなく、みどり組に残れるよう寮をつくっ
  てほしいと頼まれた。益雄も学校の生活指導だけでは不十分と思っていた。
   1958年11月発行の冊子「のぎく寮 5年目のすがた」には、寮の詳細が記され
  ている。「精神薄弱者を保護し教育するささやかな任意施設」とし、義務教育を終えた
  人への職業指導(農耕)、口石小特殊学級児童への学習指導、全寮生への生活指導を行
  うと規定。寮舎が110坪、寮地が農地や運動場など500坪、寮生居室が階上4間
  30畳、階下4間30畳で、学習室、工作室、食堂、炊事場、浴室、家族居室、ブラン
  コ、砂場などを備えていた。寮生名簿には県内、佐賀、福岡、宮崎各県の8歳~24歳
  の20人が記載されている。
   えい子は朝5時に起きて朝食を準備。益雄が6時に玄関で鐘を鳴らすと、寮生が起床。
  掃除をして6時半からラジオ体操をする。朝食後、みどり組の児童は益雄と一緒に登校
  し、他の寮生は飼っている豚などの世話をしたり、畑で農作業をしたり、寮内で絵を描
  いたりした。
   夕方になると、益雄が男の子と一緒に風呂に入り、女の子は次女協子ら女性職員が洗
  ってあげた。夕食後、全員で一日の反省会をして午後8時ごろ就寝。益雄は時間を見つ
  けて雑誌や本の原稿を書き、いったん寝てから深夜に読書をすることもあった。
   えい子や協子はトイレの指導に当たった。協子は「トイレを自分一人でできず、漏ら
  す子も数人いた。時間を見ながらトイレに連れて行ったり、夜中に起こして行かせたり。
  それでも朝起きたらじゅっくり濡(ぬ)れていた」と振り返る。
   ■寮生の死
   「風のなかに一本のマッチの火をまもるがごとく」との決意で寮を始めた益雄にも、
  好きになれない子はいた。だが、仲良くならないと指導や教育はできない。「神に祈る
  しかない」と思い、56年にキリスト教に入信した。
   寮創設から8年目、1961年初めの寒い日だった。ある女の子の服に薪(まき)
  ストーブの火が燃え移り、やけどを負った。近くの病院に入院したが、間もなく亡くな
  った。協子は「今でも思い出すと心が痛む」と振り返る。だが女の子の両親は寮に理解
  があり、非難めいたことは言わなかったという。
   益雄は翌62年春に教員を退職し、寮に専念。「のぎく学園」と改称した。日中は
  みどり組のように授業をした。
   次男原理の著書「のぎくの道」によると、益雄は63年暮れごろから体の不調を訴え、
  「いつになったら、ゆっくりおれを休ませてくれるのだろうか」などと弱気になってい
  ったという。
   次第に床に伏せるようになり、佐世保の病院に入院。実際は違うのに胃がんを疑い、
  「死」を口にするようになった。64年5月16日に病院から寮に一時帰宅。翌17日
  午後、家族や職員、寮生が畑に出はらった際、自室で命を絶った。
   協子は言う。「なんてわがままなことをしてくれたのかと腹が立った。あんな死に方
  をされると、残された者たちはどんなにつらいか」。一方、「もうエネルギーを使い果
  たしていたのではないだろうか。教員時代も受け持ちでないのに、貧しい子の家を訪問
  したりとよく面倒を見ていた。女の子が寮で亡くなったことも心労につながったと思う。
  理解してくれる人がもう少し周りにいたら…」とおもんぱかる。
   事実、益雄は膨大な量の著作を残しており、それらを読むと、社会の底辺で貧困や差
  別に苦しむ人々と積極的に関わり、温かい視線を送っていた様がうかがえる。
   益雄が亡くなった1964年の10月、東京オリンピックが開催され、世間は日本人
  選手の活躍に沸いた。日本は以後、高度経済成長を加速させていった。
   ◆
   益雄の死後、のぎく学園は保護者の強い希望で継続が決まった。えい子が協子らとと
  もに切り盛りし、1979年4月、25年5カ月の歴史に幕を下ろした。えい子はその
  2年後に死去。71歳だった。
   =文中敬称略=
   【近藤益雄の略歴】1907年3月19日、銀行員の父益次郎と母マスの長男とし
    て佐世保市で生まれる。1913年、父が亡くなり、父の故郷平戸へ母と移り住
    む。1924年、東京の国学院大高等師範部に進学。1927年、柴山えい子
    (本名ヱイ)と結婚した。県北や離島の五つの尋常高等小で教員を務め、19
    41年から平戸高等女学校の国語教師。1945年6月に兵隊に召集され熊本で
    終戦。1950年春、田平小校長を自ら降任し、口石小の特殊学級「みどり組」
    の担任になる。1953年11月23日、「のぎく寮」を創設。1964年5月
    17日、死去。
  …などと伝えています。

…他のWeb報道紹介は別途にさせていただきますね。  _(._.)_


画像は、今日(11/3)午後撮影の紅葉情景 八幡市善法律寺にて
  ゆっくり色づきはじめてきている感じです。これから紅葉が楽しみですね。
 
 
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